五、磯のあわびで貝合わせ

 本日、文秀の機嫌は朝から最悪であった。
 朝食の席で聞いた例の噂についてもさることながら、そのために文秀が被るはめになったこの先の不自由を考えると、とても良い気分でいることなどできないのだった。
 むっつりと黙って手元の書類を睨みすえながら、文秀の思考は別の場所へ飛んでいる。時刻は正午を回ったところで、多忙な彼は食事をする間も惜しんで持ち込まれる書類を裁くのに集中している。――ように見える。
 しかしじっと書面に注がれた視線は先ほどからまるで動いていない。その一点からじりじりと音を立てて煙が立ちそうなほど見つめ続けているが、別に何か難しい案件が記されているわけではない。単なる報告書に過ぎないそれを眺め続けていたずらに時を過ごしている。
「あのー、将軍」
 阿志泰が声をかけると、ようやく文秀は紙面から顔を上げた。
「何か、問題がありましたか?」
 泣く子も黙る聚慎軍の総司令官補佐としては威厳のない童顔を面白くなさそうに一瞥すると、文秀は手にした書類をようやく意味のあるものと認識したようで、要点だけに視線を走らせて既決の箱の中にひょいと放った。
 そして次の書類を手元に置いては、また同じことの繰り返しである。執務に身が入っていない事はわかりきっていたので、あえて阿志泰は作業を急かさない。無論その理由も阿志泰には解っている。
(そんなに気になるんなら、行って来ればいいのに)
 と内心で阿志泰は笑う。衝動に任せてとっとと席を立つことができない理由はあるのだが、この様子では我慢できるのも時間の問題だろう。
 彼の不機嫌の元凶は、今頃どこぞで別の男のために慣れない手料理なんぞ拵えているのだ。

 例のけしからん噂が波及する事を防ぐために、直属の部下である阿志泰と灘にいくつかの指示を与えた文秀は、さらにこの場で思いついた計画を実行に移すために、国王に奏上する書類の草案を作成した。
 話がまとまったところで、ふと阿志泰がこんな意見を持ち出したのである。
「将軍は暫く、元述殿とお会いにならない方がよろしいのではないのでしょうか」
 何しろ噂の中身が将軍と花郎の剣士の艶聞だったので、人目に着くところであまり二人が親密さを露にすると、興味本位の野次馬連中をわざわざ煽る事になってしまう。特にやましいところが無くとも、ほとぼりが冷めるまでは慎重に行動した方が良い。
 これはもっともな意見だった。しかし納得できない部分もある。自分からわざわざ人の口に上るようなことをした覚えはないというのに、何故この俺が行動を制限されなければならんのか。
 繰り返し言うが、少なくとも今の時点では世間様をはばかるような行為は何もしていないのだ。噂では既に元述は文秀の色小姓扱いだったが、名誉毀損も甚だしい。彼はまだ一度もあの剣士を汚してはいない。
 不満げな表情を隠さずいると、
「少なくとも、その『罰ゲーム』とやらが終わる一週間後までは、将軍は身を慎むべきですね」
 灘にまで念を押されてしまった。彼は続けて言った。
「具体的に言えば、意味も無く相手の身体に触れたり引き寄せたり隙を見て物陰に引っ張り込んだりしないように、ということです」
「……俺はそこまで無節操じゃねえぞ」
 昼間っから公然と部下に色目を使ったりはせん、と心外げに文秀は言い切った。
「大体、いつ俺がそんなあからさまに元述に迫ったと言うんだ」
 自侭なようでいて、文秀自身は人が思うほどいつでも傍若無人に振舞っているわけではない。軍略においては破天荒さを表すとしても、総司令官としての節度はわきまえている。礼節を心得なくして、国という制度の中で人の上に立つ事などできるわけが無い。
 どんなに可愛い大切な部下であっても、それが私的な感情である以上、表立っては公平な態度で接するしかないのだ。お互い部下を持つ身ならなおさらである。
 おまけに自分には公言していないものの、足繁く通う女もいるのだ。それなのに周りはこぞって元述との仲を邪推しては、要らぬ口を挟んでくる。なんでだよ畜生、今朝だってまだ一度も会話してねえのに。
 さらに文秀にとって哀しい事は、口に出せない心情を一番理解してほしい当の剣士にばかり、「単なる優秀な部下だ」という言葉を額面どおりに受け止められてしまうことだった。
 不機嫌さを隠さない上官の声音にも灘は怯まなかった。呆れたような表情を作り、言葉の調子をがらりと変えて畳み掛ける。
「何すっとぼけたこと言ってんですかい。国王殿下のご尊顔は知らなくても、将軍のお顔を知らない奴は雑兵だろうとこの軍にゃおりませんぜ。鎧を着てなくったってその御髪だけで、ここじゃ看板を下げて歩いているようなもんですよ。言ってみりゃ将軍の存在そのものがあからさまなんです。それが軍でも指折りの別嬪を従えて兵営をうろついてみなさいよ。看板下げた上に花輪を背負って歩いているようなもんで、いやでも人目を惹きまさあ」
「俺はチンドン屋か……」
 思わず額を押さえる文秀である。
 灘の言いたいことは解らないでもない。ただでさえ文秀は元老院に目の敵にされている。
 血胤を何より尊ぶあの老臣達は、未だに卑しい血の国王と言って解慕漱の存在を蔑んでいる。彼等にしてみれば、相続争いのどさくさに紛れて自分達の思い通りになる人間を玉座に着けようとしていたのに、忽然と現れた平民同然の男がその場所を奪ったのだ。
 しかも彼は粛正の嵐の中を生き延び、寒村で苦労をして育ったためか、優しげな外見の割に度胸も据わっている。王という人間社会で最高の位に着いたというのに浮かれも見せず、一国を背負う重みに圧しつぶされることもなく、元老院が次期国王にと推していた血筋がいいだけの男より、よほど巧く政治をこなしたのだ。
 王族としてろくな教育も受けてこなかった若造に務まるわけがない、と高をくくっていた元老院の年寄り達は、解慕漱が自ずから失態を演ずるという目論見が外れて、地団駄を踏んだ。
 それならばせめて新王から権力を削ぎ取ろうと考えた連中は、軍の将校を手懐けて武力を思い通りにしようとしたのだが、こちらもやはり田舎から出てきた成り上がりの将軍によって殆ど掌握されてしまった。しかもこの二人は親しい友人だというではないか。
 王族が次々と粛正という名の虐殺に遭い、国が荒れていた頃、奸臣どもは権力を貪ることに夢中になり、民を顧みることをしなかった。賊徒が蔓延り、法と秩序が乱れたこの国に光明をもたらしたのは泥に埋もれていた国王、解慕漱その人である。その為に、庶家の生まれの王であるにもかかわらず、民意は新王派にあるのだ。
 しかし腐れ官吏どもはまだ諦めてはいない。何とかして権力を手中にせんと機会を狙っているのだ。そのために邪魔な国王と将軍を排除する口実になるのなら、どんな些細な瑕でも利用してくるだろう。そう、今回の噂などは格好の材料だ。
 だからこそこの時期、それがどんなに私的な事でも、付け込まれる隙を与えてはならない。この騒ぎの中ではただ二人が一緒に居ただけでも、あらぬ事実を捏造されて流布されかねない。
 自分とあの剣士との関係を、そういった政争の道具として利用されるのなど我慢がならなかった。
 それをさせないためには、誤解の元になる行為を避けるしかない。解ってはいるが釈然としないのだ。
 そもそも灘は文秀が一方的に元述を連れ回しているような言い方をするが、もともと彼は、呼びつけなくても文秀の姿を見れば向こうから寄ってくる。それを追い払えとでもいうのだろうか。
「将軍が元述郎の視界に入らないようにすりゃいいことでしょうが」
 避けるってのはそういうことですよ、と言われた。
「難しい事を簡単に言ってくれやがったな。自慢じゃないがな、俺が兵営をぶらついていて、あいつの目に留まらなかった例《ためし》はないんだ。常々思うんだが、あいつの嗅覚って猟犬並みなんじゃないか。その上で、俺の姿を見て寄ってこないわけがないんだ! どうしろってんだ、日がな一日執務室にこもってろとでも言うのか!」
 力を込めて言い切る文秀に対し、それは自慢というより惚気ですよね、と灘は思ったが口には出さなかった。堂々とそんな台詞を吐いておいて、揶揄するなも何もあったもんじゃない。いちいち突っ込むのもめんどくさいので、代わりにこう言った。
「声をかけてきても無視すりゃいいじゃありませんか」
 すると今度は恨めしげな顔をして、文秀は年上の部下を睨んだ。
「ほとぼりが冷めるまで、それを続けろと?」
 一度や二度のことなら、後で適当な言い訳も効くだろう。急いでいたのだとか、あの時はたまたま機嫌が悪かったのだとか。しかしそれがずっと続くとなると、さすがに相手も故意に避けられているのだと思い至るはずだ。あれの内向的な性格からして、何か自分に落ち度があったのかとぐるぐると一人で悩むに違いない。悩んでいる間はまだいいが、悶々とした挙句に悪い方へと自己完結してしまうととてもやっかいだ。
「お気の毒に、元述郎は将軍に愛想を尽かされたと思い込んで、相当気落ちするでしょうなあ」
「わかってんなら言うな」
 わざとらしく灘が口にしたのがまさに文秀の危惧するところである。元述自身に非が思い当たらなければ、相手に理由を問うしかない。しかし相手は自分の顔を見ると避ける。私的な会話を許さず、側に寄せようともしない。すると、自分の存在そのものが相手にとって避ける理由になるのだと想像するのが当然だろう。
 なんで周囲の誤解を避けるために、本人から誤解されなきゃならないのか。
「元述殿に予め理由をお話しておいたらどうでしょうか」
 阿志泰の発言に文秀は貼り付けたような笑顔で訊き返した。
「俺とお前が愛人関係だって噂が大々的に流れているから暫く接触を避けよう、なあんて洗いざらいぶちまけろってか? あいつ卒倒するぞ。それでその後どういう行動に出るか想像がつくだろう」
「はあ、真面目なあの方のことですから、おそらく恥じ入って将軍の前からご自身を消してしまわれようとするでしょう。自ら蟄居されたり、称号を返上して出奔されたりするかもしれませんね。最悪、自刃されてしまったり」
 小首を傾げてすらすらと凶事を予想する阿志泰に、文秀は皮肉な笑みを浮かべて二人の部下を次々と睨め付けた。
「そうした結果がわかっていて、俺が貴様らのいう事をおとなしく聞くと思うか?」
 阿志泰は首をすくめ、灘は苦笑をこぼした。
「そうですね、仮にも軍の総司令官と花郎の長たるお二人が、この先ずっと顔を合わせないというのも現実的ではありませんし、噂が流れた昨日の今日でいきなり疎遠な態度を取ると、かえって痛くも無い腹を探られる事になりますしね」
 阿志泰が気弱そうな笑顔を浮かべて、文秀の言葉に迎合してみせた。
「かといって、いつも通りというのもやっぱり今の時点では人の目がうるさいでしょうし……。とりあえず二、三日は将軍に外出を避けていただいて、様子を見るというのはいかがでしょう」
 幸い、裁可を頂く書類もたっぷり溜まっていることですから、と冗談交じりに提案されると、文秀はとがった顎に手を当ててしばし黙考の後、ため息と共に了承の言葉を吐き出した。結果的には自分で口にした通り、執務室に終日篭る羽目になったというわけだ。
「仕方がねえ。そんなところで手を打つか。上手くいけば週明けには『立案書《こいつ》』の承認が下りて来るだろうしな」
 とんとん、と目の前の机に広げた書面を指先でたたく。そこには、王の認可が下りれば実行されるであろう大掛かりな作戦の詳細が、文秀の字で走り書きされている。これを書吏に清書させて王に届け、明日の議会にはかけられるようにもって行かなければならない。
 いかに軍事の采配は文秀に任されているとはいえ、議会を通し、国王の承諾を得なければ勝手に兵を動かす事はできないのだ。
「元老院はこの作戦に反対しないでしょうか。国としても初めての試みですし……」
 阿志泰の懸念に対し、文秀は悠然と構えて愛用の煙草に火をつけた。
「確かに前例の無いことだが、代々の国王が憂慮しつつも打つ手が無く先送りにされてきた問題だ。今回は元老院を説得するに足るだけの数値《データ》も揃っているし、時節も悪くない。あとは国王殿下のご英断に任せるさ」
 旧友への信頼のこもった口調である。
「では、私はこれで……」
 この時点では、彼らにするべき仕事は無い。灘隊長がその場を辞去し、会合はお開きとなった。
 一服すると、文秀はさっさと執務室にこもって書類仕事へ取り掛かった。もちろん、訓練を抜け出した後に戻って来た元述と顔を合わせる暇など無かった。いつもなら、各部隊長が訓練の成果を報告しに来る際に二三言葉を交わすのだが、今日の所はそれも避ける事にしたのだ。
 おかげで目下のところ元述欠乏症ともいった症状に悩まされているのである。
 始めてすぐは真面目にやっていた。それこそ戦場での指揮官姿のように、果断に指示を飛ばしては決裁済書類の作成に勤しんだのだが、二時間も経つ頃にはその勢いも衰えて、正午を回った今はすっかり気分がだれてしまっている。
 たった半日程度のことなのに、あの剣士の顔をまともに見ていないというだけでこうも神経がささくれ立つものとは。そう考えてみれば、普段は職務上とはいえども毎朝一回は顔を見る機会があったわけだ。
 昨日までなら、書類仕事に飽いてもさっさと部屋を出て庭園を散策すればよかった。修練場の途中に兵士達の憩いの場所として設けられた庭園はいくつもある。そのいずれかの場所で適当にぶらぶらして暇をつぶしたものだ。池のほとりの四阿で涼んだり、庭園どうしを繋ぐ遊歩道をゆっくり歩いたり、木陰で午睡としゃれ込むこともある。
 そうすると決まって元述が文秀の姿を見つけて声をかけてくる。「将軍、何をなさっているのですか?」小走りに駆け寄って来て、黒い丸い目で見上げる。
 あるいは、狸寝入りをしている文秀に遠慮がちに近寄って来て、起こしていいものか逡巡するように寝顔を窺い、そっと名前を呼ぶ。「……文秀将軍?」
 それは場所も時間も取り決めていないが、待ち合わせのようなものだった。別にそうしようと二人で相談したわけではない。なんとなく執務を抜け出してうろうろしていると、なんとなく休憩を取った元述と行き会う。
 文秀の行動はまったくの気まぐれで、抜け出す時間も過ごす場所もその日その日の気分しだいだ。それは彼がこっそり楽しんでいる一種のゲームだった。元述が文秀の居場所を見つけて来れば勝ち、来なければ負け。勝負の相手は姿が無いが、今のところ文秀の全勝である。
 ところが今日はその勝負を自ら捨てる羽目に陥ったわけだ。しかも文秀の不戦敗だ。
 そりゃあ、場合によっては戦いを避ける事も必要ではあるが。戦わずして勝つという戦略もあるにはあるしな。あくまで勝てばの話だ。戦いもせずに相手に勝負を譲るなんて自分の流儀に反している。この場合は何だ、戦う相手というのは世間体か? 俺は世間に負けたのか?
 ああ、このやり場のない怒りを誰にぶつければいいのか。
 苛々と煙草を取り出して口に銜えようとすると、至近から「ぎゅるるるる」と凄い音が聞こえた。
「あ……すいません。お腹が……」
 阿志泰が腹を押さえて照れ笑いなんぞしている。どんな腹の虫だよ、と呆れたように見た文秀自身も、自分の空腹に今更のように気が付く。
「ああ、もう昼飯の時間か」
 そうだ、腹が減るから腹が立つのだ。火のついていない煙草を口に銜えて文秀は軽く肩を回した。
「何か簡単なものでも用意させるか。お前もどうせここで食うんだろ?」
 ただでさえ得意でない上、一向に捗らない書類仕事に嫌気が差した文秀は、気分転換のためにここで一息入れることにした。おそらく阿志泰も言い出す頃合をはかっていたのだろう、ホッとしたように頷くと、いそいそと近侍を呼びに行った。扉の手前で振り返る。
「何を召し上がりますか?」
「あまり凝ったもんでなくていいぞ。なるべく早くできるやつにしてくれ」
 文秀の意向を近侍に伝えて戻ってくると、阿志泰は机の上の書類を片付け始めた。既決箱の中身に比べて、山と積まれた未決書類の束に苦笑をこぼす。
「そういえば」
 食事の邪魔にならないように、書類の束を袖机に避ける作業の途中で阿志泰はぽろっと思い出したように口を開いた。
「お昼休みに入ってもう四半時は経ってますけど、元述殿の料理の具合はどうなってるでしょうねえ……」
 椅子に背をもたれて煙草をふかしていた文秀の表情がぎしっと強張った。
「元暁殿もおっしゃってましたけど、あの元述郎が初めて作る料理に何を選ぶかなんて、凄く興味がありますよね。あっ、初めてってのはですね、昨日図書館でご本人から聞いたんです。その時はてっきり将軍に作ってさしあげるんだと思ったんですが、否定されちゃいました。そうか、英實殿だったんですねー」
 西洋の占い札に、空を見ながら崖っぷちをスキップして歩く道化の絵柄があるそうだが、今の阿志泰を絵にするならば、虎の巣の周りを歌いながらスキップしている道化になるだろう。いつ眠る虎の尾を踏んでしまうか、危ういことこの上ない。
「なんで料理なんでしょうかねえ。気になるのも当然ですよね。どうしてそこで、手料理なんだって。『花嫁修行』っていうのは突飛すぎますけど、そういう発想が出てくるのも、何となく解るような気もしますよ。心の内でそういう願望を持っているんじゃないですか、要するに。あの元述郎に、自分のために料理を作ってもらえたら――って」
 文秀が散らかした資料の束をまとめて棚に戻しながら、どんどんと密度を増していく背後のきなくさい空気にも気付かずに、脳天気な口調で自分の考えをぺらぺらしゃべっている。
「でも、殆どの人はそんな事口には出せないでしょう。元述殿ってそんな気安い相手でもないし。そこはさすがに英實殿は親しいだけあって、遠慮がないんですねえ。普段から仲睦まじいですもんね、あのお二人……」
 そこで振り向いた阿志泰は、文秀の表情を見て「ひえっ」と後退った。執務机に片肘を付いて顎を乗せた何気ないポーズで煙草を燻らせているのだが、背後にどす黒い妖雲がとぐろを巻き、今しも眉間から蒼白い雷光がほとばしり出そうな雰囲気を漂わせている。
 抜きはなった白刃のような文秀の目が阿志泰の顔をじろりと見た。
「べっ、別に私は英實殿が将軍を差し置いていい思いをしているなんて、言ってません!」
 とどめ。
 ガタッと音を立てて文秀が立ち上がると、阿志泰は悲鳴を上げて衝立の向こうへ非難した。殺される!
 しかし文秀はその場で力任せに煙草をもみ消すと、余計な一言の多い部下の方は放って置いて、大音声でもう一人の部下を呼ばわった。
「灘、出てこい!!」
「はいはい」
 上官の剣幕とは対照的におっとりした返事が天井から降ってきた。と見る間に、床の上に灘の鍛えられた長身が出現する。
 この後に文秀がとる行動に予想が付くのか、灘はふう、と呆れたように溜息をついて肩を竦めた。
「将軍も意外とこらえ性がありませんなあ……」
「うるせー。どうせわかってて観察してたんだろうが。上司を玩具にするとはけしからん」
「人聞きの悪いことをおっしゃらんで下さい。将軍の身辺警護も私どもの仕事のうちですよ。――で、ご用は何でしょうか?」
 文秀はふん、と鼻を鳴らすと僅かに怒気を緩ませた。阿志泰がおそるおそる衝立の後ろから出てきて灘と将軍を見比べる。将軍はどうなさるつもりなのだろう。
「ようするに、目立たなけりゃあいいんだろう?」
 にやりと白い歯を見せた文秀の表情は、愉快な悪戯を思いついた子供のそれだった。


**********


 美人が涙を流すという図は、例えそれがどういう状況であっても絵になるものだなあ。
 呆れていいのか感心していいのかわからない心境で、英實は作業台の前に膝をついて俯いている友人の横顔を眺めた。大きな目に浮かんだ透明なしずくが、瞬きをするたびにゆるい曲線を描きながら頬の上を伝い落ちていく。
 眉を寄せ、きゅっと唇を引き結んだ様は、胸を裂く大きな悲しみに耐えているかのように見えるが、実際は単に物理的な痛みを耐えているに過ぎない。例え花郎最強と呼ばれる剣士であっても、この部分は鍛えることができない。
 ああ、と元述はさっきから繰り返し声を漏らしている。
「ああもう、まったく、このたまねぎというやつは――」
 台の上に転がった平たい球形の白い物体に向かって毒づく。まな板の上には、微塵とは言えなくてもどうにか小さめに刻まれた玉ねぎが端に寄せ集めてあった。
 なんとか無事に剥きエビを刻み、イカ、あさりと順番にこなした元述は、現在たまねぎのみじん切りで苦労をしているところだ。
 いや、イカとあさりに関してもけして楽々というわけには行かなかったのだが……特にイカの皮を剥いてわたを取り除く辺りではエビ以上に苦戦したのだ。その時の騒ぎについてはここでは省くとして、最初は全部一人でやらせようとしていた英實だが、途中で見かねて結局何度か口を出す羽目になった。
「まあ、しょうがないよ。たまねぎはどうしたって、目にしみるんだから」
 宥めるように英實は言った。が、目が痛くて泣けて泣けてしょうがない元述にとっては、何の慰めにもならず、情けなさにますます顔がゆがんでしまう。
 ああ――天下の元述郎ともあろう者が、たまねぎごときに泣かされるなんて。
 堪えようも無い涙に鼻をぐすぐすさせながら、しかめっ面を英實に向けて言った。
「殺形刀使っちゃだめか?」
 うわおまえその涙目で上目遣いにってなんかヤバイヤバイぞ人が見て無くてよかった。
 内心で絶叫しながら普段どおりの口調で「ダメに決まってんだろ、ボケ」と返す英實も手馴れたものだった。あいにく、元述の顔に見とれたりどぎまぎしたりは少年時代に散々やった。今更どうなるってもんでもないのだが……
「おまえさあ、修練場へ戻る時にちゃんと顔を洗って行けよ。俺が何かしたと思われたらいやだかんな」
「当たり前だ。花郎の隊長ともあろう者が、泣き腫らした顔で訓練に出られるわけがない」
 むすっとして応える元述には微妙に言わんとするところが通じていないような気がした。まあいいか、とため息をついてふと視線を動かした英實は、小屋の入り口の方から地面に伸びた異様な影に気付いてぎょっとする。
 半開きの戸の隙間から、明るい戸外の光が差し込んでいた。いつの間に現れたのだろう、巨大な角を持つ鬼のような姿の影が、地上にある入り口から背を向けた元述の足元まで伸びている。鍛えられた軍人の中でもさらに鋭敏な感覚を持つ二人に、気配すら気付かせずに近付いて来るとはいったい何者か。英實はひやりとした。
 床に膝を着いて俯いている元述の首筋は、上から見下ろす人物にとってまったく無防備にさらされている。相手が郎の剣士を斃しに現れた暗殺者だったとしたら、今頃とっくに命を獲られていてもおかしくない。
 しかし戸口にたつ人物には殺気がない。逆に、何の害意も感じられないからこそ、慣れない作業に神経を集中している元述は気付かないのだ。
 床に伸びた影をたどって入り口に目を向けた英實は、逆光の中に立つ特徴ある人影《シルエット》に、見覚えがあることに気がついた。大きく張り出した水牛の角のような、あの兜。胸、上腕部と腰部を覆い、腹部をさらけ出すような甲冑と、口元を除いた顔の上部を覆う仮面。
 文秀将軍麾下の、特殊任務を帯びた精鋭集団、幽霊《ゴースト》部隊の戦闘装束に違いない。
 なぜ、特殊部隊の戦闘員がこんな場所に?
 もしや例の噂の件で、司令部へ出頭せよとでも言われるのだろうか。あんな流言飛語を、まさか司令部の人間が真に受けるとは思わなかったので英實は慌てた。
 動揺した気配が伝わったのか、元述が「どうした?」とこちらに顔を向けた。英實の見ているものを視線が追いかけて、遅ればせながら入口に立つ闖入者に気付き、ぎくりとする。
 こんな目と鼻の先に接近されるまで気付かなかったとは、何という不覚!
 臍をかみつつとっさに包丁を身構えてしまった元述だったが、改めて相手の姿を真っ向から見た瞬間、相貌に浮かんでいた表情が不審から愕きにとって変わった。刃物を構えた手がだらんと下がり、両の眼がこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれる。
 呆気にとられたようにぽかんと唇を開いた元述を見て、入口に立つ何者かは微かに笑ったようだった。仮面の奥の両目が満足げに細められる。
 ゆっくりと元述の唇が動き、その名前を紡ぐ。
「文秀将軍……」