二、人の噂も百十五日

 軍隊の朝は早い。早朝まだ暗いうちから起き出して装備一式を身につけて兵営門へ整列し、上官の号令に従い隊列を組んで行軍開始だ。
 練兵場に到着後、陣形を使った模擬戦闘を開始する。終了後、その場で支給された朝食を摂り、部隊ごとに分かれての訓練時間になる。元述ら花郎の部隊も他の部隊と同じように、走りこみや柔軟などの基礎体力作りから始まって、型の練習、二人で組んでの受け流しの練習、試し切り、武器と防具の手入れなど諸々をこなさなければならない。
 それは最上位の元述郎とて例外では無く、むしろ先頭に立って模範を見せなければならない立場だ。時間に遅刻するわけにはいかないし、もちろんサボったりしたら懲罰の対象になる。
 それなのに英實は、抜け出して食材の買出しに行こうなどと言うのである。
「そんなこと、できるわけないだろ!」
 配給所で列を作っている兵士達を憚り、元述は声を押さえて英實に食って掛かった。朝食の時間は休憩を含めて一時間しかない。市場(どこら辺にあるか元述は知らないが、練兵場と兵舎の距離から考えても、相当に遠いと思う)に行って戻ってくる間に、訓練が始まってしまう。
「でも、新鮮な魚介類は朝のうちにしか手に入らんぜ? 訓練が終わってからじゃ到底間に合わないぞ」
 わざとなのか、英實は問題の要点をずらした答えを返して来た。抜け出す事に関しては余り罪悪感を持っていないらしい。どうやら、常習犯のようだ。
「そういう問題じゃない!」
 声を荒げる元述の傍らで、彼の分の食膳を捧げた花郎の青年が所載なさげに立ちすくんでいる。大抵こうして誰かが持って来てくれるので、〈郎〉の称号を得てからというもの、元述自身が配給の列に並んで待った事は殆ど無い。
 新米花郎の間では、誰が一番最初に元述郎の食膳を届けられるか、競争になっているらしい。本人はそんな事をされると戸惑うらしく、いつも「いいのか?」とか「お前の分はあるのか?」とかかえって気遣うような言葉をかけてくれる。それが嬉しくてたまらず、二度並ぶ羽目になっても元述郎様に食膳を持っていきたいと思う兵士は多い。
 今日は声をかける直前で、英實に割り込まれてしまったが――この二人が気の置けない親友同士である事は、皆が承知している事である。
 さすがに親友殿は、花郎最上位の剣士相手にもずけずけと遠慮が無かった。
「じゃ、材料どこで手に入れるんだよ。アテがあるのか? どうせ俺に今言われるまで、材料の事なんか思いつきもしなかったんだろうが」
「いや、それは……」
 図星なので元述は言葉につまる。追い討ちをかけるように、英實は畳み掛けた。
「言っとくけど、厨房に行って余りを分けて貰おうなんて甘い考えだからな。昼食時は死ぬほど忙しくなるからそれどころじゃ無いし、連中の料理に賭けるプライドは生半可なものじゃない。大事な食材を素人にいい加減に扱われるなんざ、絶対に許しちゃくれねえぞ」
「そうなのか……?」
 自分の料理の腕にはまるで自身の無い元述がおずおずと訊くと、英實は重々しく頷いた。
「そうだぞ。俺も以前、『目潰し弾』を作ろうとして、卵と胡椒と唐辛子を失敬しようとした事があるんだが、見つかって半殺しの目に遭ったんだ。料理の道のプロをなめると、恐ろしい目に遭うぞ」
 それは黙って盗っていこうとしたからでは? と横で聞いている青年は考えた。元述郎様がちゃんと誠意をもって頼んだら、料理長も大目に見てくれるのじゃないだろうか。
 しかし元述は自分を常に公平な立場に置いて考える。兵士達の間では官位よりも重要な意味を持つ〈郎〉の称号を持つからと言って、特別待遇が許されるという発想は無いらしい。
「なるほど、それはわかったが、やはり隊長の俺が訓練をサボるわけにはいかないぞ」
 あくまで真面目な態度を崩さない親友に、英實は溜息を吐いた。
「お前って、ほんと強情。……あのな、日頃真面目に指揮してる分、もうちょっと部下を信じてやってもいいんじゃないか?」
 思いがけない事をいわれて、元述の両目が丸くなる。英實は逞しい顎をついと動かして、さっきからずっと食膳を持ったまま待たされている青年の存在を示した。
「そいつだって、さっきから辛抱強く待ってんだ。お前の部下は、隊長が見ていないからって怠けるような連中なのか?」
「そんな事は無い」
 きっと英實を睨みつけてから、元述は青年の方を向いた。黒い瞳に問うように見つめられて、青年はのぼせ上がる。
「もっ、もちろんです!!」
 元述が口を開く前に、青年は真っ赤な顔で叫んだ。緊張の余り声がひっくり返っている。
「お任せください! 隊長がご不在でも、けっして手を抜いたりは致しません! 花郎部隊の栄誉に賭けて!!」
「よし」
 元述郎が笑顔を見せて頷いたため、青年はその場で破裂し死んでしまうかと思った。
 部下にこう言われたのでは元述としても納得せざるを得ない。彼らが真面目に訓練をしていてくれれば、咎めを受けるのは自分一人で済むだろうと考え、英實の提案に乗ることにした。
「では任せる。それと、俺は所用で少し外すが、なるべく早く戻るから代行を頼むと、玄武《ヒョンム》に伝えてくれ」
「は、はいっ!! 承りました!!」
 任すの一言に青年は有頂天になった。盆を持ったまま器用に敬礼すると、青年は張り切って駆け出して行く。
「慌ててこぼすなよー」
 茶化すように英實がいうのを背に、青年の姿はあっという間に見えなくなった。おそらく花郎部隊に所属して日が浅いのだろう。母親に初めてお使いを頼まれた子供よりも使命感に燃えている。あの調子では、玄武のところにたどり着く頃まで汁物の中身が残っているやらだ。
 自分も昔はあんな風に、憧れの先輩から言付けを頼まれて勇んで走ったりした事があるなあ、と年寄りじみた感慨に耽る英實だった。隣の親友は現在進行形で総司令官殿にのぼせているが。
「よし、行くぞ。ホレ」
「何だこれは?」
 英實が投げて寄越した上着に、元述は疑問符を浮かべる。
「着とけよ。お前のその剣、すごく目立つ」
 腰に提げた殺形刀《サルヒョンド》を指差してそう言われた。確かに柄に施された怪物の意匠は独特で人目を引くかもしれない。上着で隠せと言う事だろう。
「なら、自分のを……」
「いつものか? 魚河岸に武官のコートなんて着て行ったら余計目立つだろうが」
 それもそうだ。
 大人しく袖を通す元述を急かすように、英實はその背中をどすどすと押しやる。
「ほれほれ、時間がないんだろ、急げー」
「馬鹿力で押すな、痛い」
 小突きあいながら配給の列をくぐり駆けて行く二人は兵士達の注目の的だった。とてもこっそり抜け出す風情ではない。目立つ目立たない以前の問題だった。
 それでも一応、総司令部の天幕がある辺りは避けて通る。元述が遠目にそちらをちらりと見やったのは、そこにいるであろう総司令官の事に思いを馳せてかもしれない。


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 さてその天幕の中、当の文秀将軍はといえば、慌しい朝食の真っ最中だった。
 軍の全てを掌握する総大将には、兵士達の訓練を監督する以外にも仕事がたくさんある。彼がこの練兵場に顔を出すのは朝と午後の全体演習の時だけで、それ以外の訓練指導は各部隊長に一任してあった。部隊ごとの訓練が始まる頃には執務室に戻って大量の報告書や承認書類と格闘しなければいけない。
 だが、朝食だけは兵士たちと同じように練兵場で摂る。彼には兵士達は戦のための道具では無く、同じ戦場で命を賭ける同朋と言う意識が常にあるからかもしれない。同じ釜の飯を〜というやつだ。単にこの埃っぽいがやがやした雰囲気が好きなだけかもしれないが。
 その朝食の席でも、緊急の用事があれば構わずすぐ通す事にしている。形式ばった事は余り好きではない。
「そういえば、お聞きになりましたか、元述郎の話は」
 辺境での悪獣討伐任務に関する報告を持ってきた幽霊《ゴースト》部隊隊長が、報告の最後にさりげなくそう問いかけると、将軍は口にしたスープがまるで苦い薬湯だったかのように形の良い唇をひん曲げて、部下の隻眼を睨み返した。
「朝からわざわざ俺にその事を確認にきた奴はお前で三人目だ、灘」
 どことなく、不貞腐れたような口調だった。平の兵士達からは偶像のように崇拝され鬼神のように恐れられている文秀だが、実際の彼はこのように子供じみた表情を見せたりもする。最もそれは文秀自身が見せても良いと判断した相手に限られ、多くの将兵にとっては直截に口を利ける相手ではけして無い。
 灘隊長は数少ないそのうちの一人で、するとあと二人ばかりそういう人物がいる事になる。
「別にその為に出向いたわけではありませんが、お気に触ったのでしたらお詫びします」
 不機嫌な文秀の様子に怯む事も無く、壮年の隊長は穏やかに頭を下げた。
「別に謝らんでいい」
 むっつりと言って、文秀は口の中に蒸し餃子を放り込んだ。実際の所、面と向かって訊いて来たのは三人だけだが、今朝この天幕を訪れた将校の殆どが、何か言いたそうにちらちらと文秀の顔を盗み見ていたのだ。
「で? お前が聞いたのはどんな噂だ?」
 忙しく食物を口に運び咀嚼しながら合間に文秀が促すと、灘隊長は苦笑ぎみに自分の聞いた話を伝える。
 夜の間に広まったのか、部下を介して彼の元へ届けられた噂は実に何通りにも及んでいた。聚慎のエリート部隊の最上位という実力に加え、容姿にも非の打ち所が無い元述郎は、話題性にかけては軍のカリスマ的存在である文秀将軍にも負けていない。
 禁欲的な軍隊生活の中でも、そういう人物をネタにした埒も無い噂というものは存在する。真偽の程はわからなくても、味気ない生活の中のちょっとした刺激になれば良いのだ。特に噂好きな連中が好むのが元述郎と将軍を絡めた話題で、今回もご多分に漏れず、発端は英實との食堂での会話であるのに、いつの間にか将軍の名前まで登場しているものもある。
 聚慎最強の剣士と料理という組み合わせが珍しいのか、何故そういう事になったのか等の憶測も噂には含まれていた。
 その中でも傑作というか、灘隊長も思わず部下に聞き返してしまったものがこれだ。
『元述朗が花嫁修業を始めたらしい。まずは料理を覚えるようだ』
 それを聞いた文秀は口の中の食べ物を飲み込み損ねて、激しくむせ返った。
「ばっ、花嫁修業だあ……!?」
 どうにか咳は治まったものの、言ったきり文秀は絶句してしまう。流石の将軍も唖然として続く言葉が見つからないようだ。どこをどう間違ったらそんな発想が出てくるのか。仮にも男性であり全軍でも屈指の実力を持つ元述郎に対して「花嫁修業」とは、冗談にしても程がある。
 文秀が最初に聞いたのは噂と言うより端的に見たままを伝えたものだ。
『元述が図書館で料理の本を探していた』
 この情報をもたらしたのは今も傍らに控えている副官の阿志泰だ。彼はそれで思いついたままを文秀に問うた。「将軍がそうお命じになったのですか?」
 初耳だ。食ってみたい料理の話はしたが、あれは西洋の宮廷で出されるようなもので、元述にそれを作らせようなんていかな鬼将軍とて命ずるはずが無い。だから文秀は否と答えた。元述だってまさか将軍を喜ばせるために宮廷料理を作って献上しようなどと考えまい。
(いや、あいつならやりかねんか?)
 こと将軍に対しては愚直すぎる所のある剣士の、彼の戯言にさえ真剣に聞き入る様子を思い出してはニヤニヤしていると、
「では、どなたに作って差し上げるんでしょうか」
 阿志泰が首を傾げてそんな疑問を口にするものだから、文秀は内心むっとした。なに言ってんだ。あいつがそんな事する相手っつったら、俺以外にいないだろうが。
 結局、その後定例報告に来た元暁が、英實との賭けに負けた結果だと教えてくれたのであった。
「元述殿が料理を作るなんて、興味がありますよね」
 くすくすと可愛らしい笑みを零しながら元暁が言うのには、苦笑したものだが……
 文秀は盛大に舌打ち、地を這うような声音で呟いた。
「ったく、人を何だと思ってやがる。俺はそこまで色惚けしてねえぞ」
 いくら気に入りの部下であっても、そいつの人生を自分に添わせて当然と思い上がる程、文秀は傲慢ではない。
(第一、元述に対しても失礼だ。いくら可愛い顔をしているからといってあいつは剣士なんだぞ)
 花嫁修業だなどと言って、相手の名前をはっきりと出さないところがまた当てこすっているようで忌々しい。文句があるなら堂々と言えってんだ。
 元述が文秀を敬慕していることは多くの将兵が知るところだが、別にそれは咎められるようなことではない。少なくとも公においては、部下と上司の信頼関係を逸脱した振る舞いをした覚えは無く、あくまでも将軍は有能な部下として元述を寵愛し、彼は国を代表する剣士として将軍の信頼に応えるべく、実直に勤めてきた。私的な感情はどうあれ、それを職務の場にまで持ち込むことは絶対にしない。
 それでも中には二人の関係について要らぬ詮索をし、邪推めいた事を言う輩もいることはいる。二人ともが並以上の美貌の持ち主だという事も、下世話な連中にとって格好の標的になっているのだろう。
「将軍は黙っていても人目を引くのですから」
 とは、灘。いつだったか、何か行動を起こす時は控えめなくらいでちょうどいいのだと、窘めるように言われた事がある。顔が売れてるってのは不自由この上ないと思ったものだが、噂したい奴は勝手に囀ってろと、その時は大して気にもしなかった。
 子供の頃から周囲に誤解され易く、批判だの中傷には慣れている文秀だ。中央に出て軍人となりここまでの地位を得たが、宮廷では全ての人間から歓迎されているわけではない。成り上がり者の彼に軍事の全権を預けることを、未だに不服とする官吏達は多い。
 自分に敵が多いことはわかっていた。それでも、王《とも》の代わりに戦場へ行き国を護る役目は他の誰にも任せられないという自負が、文秀にはあった。その信念の為にはどんな無茶でもやるし、何を犠牲にしても構わないと思っている。悪評など恐れるに足りぬ――が、それはあくまでも自分の身に関しては、だ。
 こんな噂を本人が耳にしたらどうなるか。
 噂の原因を作ったのは元述自身であるかもしれない。だが、それを故意に捻じ曲げてばら撒き流言を広めたのは、花郎の長を誹謗する目的ではなくて、その向こうにいる文秀への邪心からなのだろう。文秀に敵愾心を燃やす官吏の息がかかった者が、軍内部にも存在する事が覗えた。
 いわば元述にとっては将軍のとばっちりにも等しい。本人に非が無いだけに、噂に傷つくだろう彼の気持ちを考えると、面白半分に流言を広める連中に対し、腸が煮えくり返るほどの憤りを覚えた。
 怒りを露にする将軍の姿に、灘隊長は深い溜息を付いた。
「私の独断ですが、噂を口にするものを見つけたらその場で拘束するように部下に命じました」
 特殊部隊の人間が動いたとなれば、噂は文秀将軍の耳に入ったと誰もが理解するだろう。処罰と何より将軍の怒りを恐れて皆口を噤むに違いない。これで噂の拡大はほぼ回避されたと考える。
 可しと頷いたが、それでも文秀は怒りを納めない。
「流言の発信元を即刻見つけ出して処断しろ。一切の容赦はするな」
 笑い事ではないのだ。聚慎が内外に誇る花郎部隊最強の剣士は、国王の友人であり軍の最高司令官である文秀将軍の情人《いろ》である、などという〈醜聞〉が他国の諜報員にでも洩れたらどうなるか。国際社会における王国の権威は地に落ちる。色惚け将軍の率いる軍隊など恐れるに足りずと他国から侮られ、ひいては王に対する国民の信頼も失うだろう。そんなことも考えずに無責任な噂を吹聴して回る人間は、この軍に必要ない。
「仰せの通りに致します」
 阿志泰がこれに答え、さらに補足する。
「しかし、一度耳にしてしまった噂を兵士達の頭から消すのは不可能だと思います。何か対策を講じるべきかと」
 ふむ、と文秀は僅かに怒気を緩ませ、唇に手を当てて考え込む素振りを見せた。冷めてしまった朝食の存在もすっかり忘れ、眉間にしわを寄せて卓上を睨んでいる。その視線がちらと部下の持ってきた報告書に注がれた。各領主から送られてきた、悪獣の出現数推移と被害報告、王立軍への支援要請。
 灘隊長と阿志泰が見守る中、やがて顔を上げた将軍はなにやら剣呑な笑みを浮かべていた。
「どうやら皆、演習ばかりで退屈していると見えるな。ここらで一つ、軍人らしい仕事をさせてやろうじゃないか」
 その言葉と将軍の身を彩る覇気に、二人の部下はこれから忙しくなるという予感を、否応無く覚えるのだった。