三、芋の煮えたもご存知無いよ

 さて、司令部で交わされた会話など知りもしない二人は、いったん元述の私室まで戻ってから、市場への道を急いでいた。
 材料を買いに行く事などはなから考えていなかった元述は、チヂミを作るのに何を揃えておけばいいのかも分かっていない。図書館から借りて来た例の本が必要だった。それを取りに行っていたのである。
 訓練はサボってもさすがに朝食抜きというわけにはいかないので、途中屋台で白身魚の天ぷらと麦粥を食べ、ゆでトウモロコシにかぶりつきながらまずは魚河岸へと続く道を急ぐ。
「トウモロコシの芯からきれいに実を取る道具があったら便利だと思わないか?」
「歯があれば充分だ」
 そんな会話をしながら、大股で道を闊歩する。二人とも結構な長身なので早足で人混みを歩いたりすると迷惑になるはずだが、誰にも身体をぶつけることなく人の間を縫っていく様はさすが武人の身のこなしだった。
 場所を知っている英實が先導し、その後ろを元述が続く。
 魚河岸と言っても、港まで行ったのでは時間がかかり過ぎる。今回彼等が目指しているのは、全国から舟で運ばれた様々な物資を取り扱う卸売り市場で、そこへ行けば食材だけでなく大抵の物が揃うのだと英實は言う。船から下ろされた荷が小船に積みなおされ、運河を利用して上流の都市まで運ばれて来るのだ。地元で獲れる海産物などは漁場から直接輸送されて来る。
「しかも、他所で買うよりずっと安いしな」
 得意げに付け足す褐色の顔を呆れ半分感心半分で元述は見返した。
「話には聞くが、俺はまだ実際に行った事は無い。お前は何をしにそんな所まで行ってるんだ?」
 言外に訓練をサボる理由を問われ、英實はちょっと苦笑する。
「別に頻繁に抜け出しているわけじゃ……まあ、昨夜見た通り、日用雑貨を買うのによく利用してる。購買部じゃ鍋みがきだのおたまだのは売ってないしな」
「……まあ、確かに」
 それが何を作るのに必要なのかは知らないが、元述は素直に頷いた。生活用品など、必要以上にものを持たない主義の元述の場合、身の回りのものを揃えるのに軍の購買部を利用すれば事足りていた。何しろ趣味は修行という男だ。英實や乙巴素が故意にでも引っ張り回さなければ、日がな一日修練場で剣を振っているような味気ない生活を送っている事だろう。
「お前もたまには市場に来てみろよ。なかなか面白い所だぜ」
「それはいいが、サボるのは感心しない」
 真面目な顔で言う相手に、英實は溜息をついた。
「お堅い奴……」
 しかしいざ市場に着いてみると、やはり物珍しいのか目を瞠るようにして辺りを見回している。棒を立てて布を張っただけの簡単な作りの店舗に、籠一杯に詰まった色とりどりの果物や野菜が並ぶ店、升で量り売りをしている豆類、穀物類。地方から寄せられた珍しい玩具や民芸品を置く店、妖しげな骨董品。馥郁たる香りを漂わせているのは茶葉の店だ。茶碗や花器などの陶磁器類も売られている。
 市場はいくつかの通りに別れているらしく、一度はぐれたら合流するのに苦労しそうだった。通り毎に売っているものの種類が違うらしい。
 鍋だの薬缶だのが朝陽を眩しく弾き返している金物問屋の前を通る時は、店の主人が英實を見かけて声をかけて来た。
「おぅ兄ちゃん! 今日は二人連れかい? 珍しいねえ」
 日に焼けたしわくちゃの顔がこちらを見たので、元述は軽く会釈を返した。そんな品のいい挨拶をされたことが無いのか、主人は目を丸くして馴染みの客とその連れとを見比べた。
「友達かい?」
 主人が訊ねると、英實は自慢げに胸を張って答えた。
「ああ、そうだよ。これからこいつを魚河岸まで案内してやるんだ。急ぐんで、また今度な!」
 陽気に英實が手を振って歩き出すと、主人も吸っていた煙管を持ち上げて応えた。「いつでも来な!」
 元述はもう一度老人に対しお辞儀をすると、がっしりとした英實の後ろ姿を追いかけた。小道具類を売っているこの辺りの店は常連なのか、英實はあちこちから声をかけられては、自然にそれに応えている。随分と馴染んでいるようだ。
 手狭になった通りを慣れた様子ですり抜けていく英實の後を追って行くのは、なかなかに大変な事だった。途中店の売り子に引き止められて何か買わされそうになるのを、英實に腕を引っ張られ救出されるという場面も何度か。
「ああいうのにいちいち反応しなくていいんだぞ。別に気を悪くしやしないから」
 そういうものか、と頷く元述の世間慣れしていない様子に何だか英實は微笑んでしまう。スリに気をつけろよと注意を促すが、聚慎最高の剣士に気付かせずに触れることができる人間もそう多くないだろう。
 やがて魚河岸に着くと、威勢良くやり取りする客と売り子の喧騒に口をぽかんと開けている様子がまた可笑しい。
 生臭い潮の香りや殺気立った声の応酬は彼らが慣れ親しんでいる戦場の雰囲気にも似ているが、こちらはもっとずっと明るい活気に満ちており、戦場のあの追い詰められるようなものとは別種の興奮が支配している。
 こういう空気、こいつはどう感じるだろうと元述の様子を窺えば、遠方から輸送されてきたコチコチの鮪をノコギリで解体する作業や、水揚げされた魚がごろんと茣蓙に並べて置いてあるのを珍しそうに見ている。大きな笊の中で生きた伊勢海老がごそごそ動いているのに気を引かれて覗き込んだ所を、早速売り子に捕まった。
「まいど! この海老は新鮮だよ!」
 そりゃあ、生きてるもんな。と英實は内心突っ込んだが、元述はしゃがみこんで海老を観察する体制のまま肩越しに振り向き、訊いた。
「これを買えばいいのか?」
「……いやお前。チヂミ作るのに伊勢海老買ってどうすんだよ」
 大人が両手で持っても余るような海老を、チヂミの具に使おうというのはどう考えても不釣り合いだ。英實は呆れて言ったが、元述は自分がおかしな事を言ったとは思わないらしい。「そうか」と頷いて立ち上がり、勝手にうろうろしだした。次に目を留めたのは料亭用にまるごとのまま売られているアンコウで、首を傾げて右から左からとしげしげ眺めては「変な顔だ……」等と呟いている。
 英實は自分の上着の内側に付いているブックホルダー(自作)から、「はじめての料理」と題された本を取り出した。買い食いするのに邪魔なので預かっていたのだ。
「とりあえずここでは海老と、イカと、アサリを買って行くぞ」
 何故か英實が買い物を仕切っている。元述は生返事で今度はオニオコゼに夢中になっている様子だ。
 あらら、もしかして元述さん、お魚大好きですかー? つーかさりげに見てるの高い食材ばっかだなオイ。
 英實は親友の意外な一面を見て内心で突っ込む。それとも変な形の魚が好きなのだろうか。普段将軍の美形顔ばっかり拝んでるせいで、こういうのが新鮮なのか。
 英實が黙って見守っていると、素手でオコゼを掴んでみようとして、売り子に注意されている。オニオコゼの背びれには毒の刺があるのだ。これでも食用の魚である。
 暫く放っておいて様子を見るのも面白そうだったが、時間が無いのは確かなのでさっさと必要な物を買うことにしよう。英實は空を見上げた。大分、日が高くなってきている。別に英實はこのまま昼まで市場で遊んで行ってもいいのだが、元述に後で文句を言われても困るので、一応早めに切り上げて帰る予定だ。
「ほれ、元述」
 肩を叩いて促すと、黙って大人しくついて来る。慣れない場所なのでとりあえず英實に任せるつもりなのだろう。素材の選別も値切るのも全部英實がやった。その間元述がしたことと言えば、声をかけてきた売り子(主に女性)から試食品をもらっては味見をする事だった。
「こら! 人に買わせておいて何食ってんだ!」
「塩辛」
 そんなの見ればわかる、そういう事を訊いているんじゃない、と言い募るところへ、何かで口を塞がれて英實は呻いた。元述が塩辛をつまんだ箸をそのまま目の前の開いた口へ突っ込んだのだ。
「文句があるならお前も食ってみろ。結構、美味い」
 にこりともしないで言ってのける。何でそんなに偉そうなの、お前。と英實は思ったがありがたく食わせてもらう事にした。箸をくわえたままもぐもぐと口を動かす様子をじっと元述は見守っている。
「おお、なるほどいけるな。酒のアテにいいんじゃね?」
 元述が手にした小皿の残りを箸でひょいひょいパクリと平らげつつ、英實が舌鼓を打つ。
「買ってくか?」
 英實はちょっと考えて、「じゃあ、花郎の連中の分も買っていってやれよ。面倒かけたからってことで」
 これに元述は破顔して頷いた。
 魚河岸を出ると、二人は次に粉屋を目指した。チヂミを作るのに、小麦粉を買って行かなければお話にならない。
 中央卸売市場では顧客のメインが宿屋や料理屋など個人業者になるため、小麦粉も業務用の大袋でどっさり売っている。大人が一人すっぽり入りそうな袋の中身は小麦粉の他にも豆やあるいはトウモロコシ、またはそれらを挽いた粉、白米、赤米、ひえ、粟、麦、等々。
 家庭用には量り売りをしているので、元述らが買うのはそちらだ。「薄力粉」と書かれた袋を指差して店の者に必要な分を量ってもらう。
「英實、こっちに『強力粉』ってのがあるぞ」
 元述が並んだ袋を指差して言った。
「ん? でもチヂミに使うのは『薄力粉』でいいんだろ」
 本を見ながら英實が答える。大の男二人で料理の本を見ながら買い物って、端からはどんな風に見えるやら、とちょっとだけ思った。
「強いほうがいいんじゃないのか?」
 と、元述。小麦粉に強いも弱いもあるか! と英實は突っ込み、両者の違いを説明する。何故だか彼はこういった雑学に詳しいのだ。元述は分かったのかそうでないのか判別しがたい顔付きで聞いていた。
「だから、『強力粉』の場合だと粘性が強くて生地が固まっちまうから、フライパンで伸ばして焼くチヂミには向いてねえの。わかった?」
「……まあ、概ねは」
 上目遣いに英實を見て頷いているものの、本当に理解したのかどうかはあやしい。
 店番をしているのは粉屋の息子と思しきそばかすの少年だった。十二、三歳ぐらいだろうか。綺麗な顔の男が珍しいのか、じろじろと不躾なほどに元述の顔を見詰めている。その為に手元がお留守になっていて、粉を零してばかりいるのでちっとも作業が捗らない。
 元述が少年に視線を向けると、ぱっと慌てて目を逸らした。動揺のあまり益々手付きが危くなっている。だが当の元述は気にした様子も無く、別の場所へさっさと視線を移動した。店の奥で粉屋の女房らしき女が石臼で粉を引いているのを見つけ、そちらへ注目する。手元をじっと見詰められ、中年の女房は年甲斐も無く頬を染めていた。
 まあね、確かにこいつは美形だしな。と英實はぼんやり考えた。均整の取れた長身、すらりとした肢体は清潔感があってしなやかだ。柳眉というに相応しい整った眉に通った鼻筋、一文字に引き結んだ唇は程よく色が付き、黒目がちの大きな目は涼しげで泉のように澄んでいる。
 元述を構成する部品の一つ一つを数え上げながら、花のかんばせってのはこいつの顔つきみたいなのを言うんだろうなと英實は思う。
 彼の顔立ちの中で一番好きな部分は何処かと問われたら、自分はあの目だと答えるだろう。黒くて吸い込まれそうで、好ましいと同時に恐ろしくもある。
 だけど一番気に入ってるのは顔よりもあの素直な性格なんだよな、と一人頷いて元述を見ると、その澄んだ眼差しで自分を見詰めていたので我知らず動揺した。
「な、何?」
「何って……」元述は呆れたように小麦粉の入った袋を掲げて見せた。「済んだぞ。次は何を買えばいいんだ?」
 粉屋の息子が慌てる英實を不思議そうに眺めていた。こりゃ人のことをどうこう言えねーな、と自嘲ぎみに肩を竦め、コホンとひとつ咳払いをしてその場をやり過ごす。
「うん、次は八百屋だな」
 そうか、と頷く元述を横目で見て、ふと英實は思いついて口を開いた。
「おまえさ、俺にまかせっきりなのは良いけど、次に自分で買いに来る時に道とかちゃんと覚えてるか?」
「次?」
 元述はきょとんとして黒い目を瞬いた。おいおい……と内心でため息をつき、一週間、と賭けのことを思い出させる。
「昼飯を作ってもらうのは今日だけじゃないだろ。今回は少し多めに買っていくとしてもさ、一週間ずうっと同じ献立じゃいやだからな。また材料を買いに来なきゃならないだろ」
 ああ、なるほど……と呟いてから、元述は「えっ!?」と大げさなほど驚いた。
「それじゃ、また訓練をサボる事になるのか!?」
 どうやら買出しは今回限りの事だと思い込んでいたようで、次があるなどと考えていなかったらしい。けして知能が低いわけでもないのにどうしてこう考えが足りないのか、と時々英實は不思議な気持になる。剣の腕だけで務まるほど、花郎の隊長は生易しいものでもあるまいに。
「こ、困るぞそんなの! 今回のことだけでも処罰を覚悟してたのに、度々なんて……」
 粉の包みを胸に抱え込んでおろおろとその場で歩き回る元述の肩を手で押して、八百屋の方向へ誘導しながら、宥めるように英實は言った。
「まあまあ、お前は普段真面目にやってるから、多少はお目こぼししてもらえるんじゃないか?」
「何を甘いことを……それに、その理屈で言ったらお前はどうなるんだ。よく訓練を抜け出してここに来てるんだろう?」
 ぐいぐいと押されて歩きながら、横目で疑わしげに英實の顔を窺う。
「だーから、いつも訓練をサボってるわけじゃないって言ってるだろ! 休みの日とか、自由時間を利用して来てるんだって。今回は急なことで時間が取れなかったからサボるハメになったんじゃないか」
 誰のためにここまでしてやってるんだと、自分が持ちだした賭のことは棚に上げて英實が言い返せば、元述は不満そうに口を噤んだが、やがて何か思いついたらしくふと足を止めた。
「そうだ。それなら俺もそうすれば良いんだ。幸い明後日は休日だし……予め献立を決めて、行ける時に買い込んで置けば一度で済む」
 どうだ? と英實を見れば、彼も頷いて賛同した。
「いいんじゃね? それで。まあ、今日明日はチヂミで、残りの五日分はまた後で考えておくよ」
 ほっとして、元述は満足そうに頷いた。
「じゃあ、明後日は予定を空けておけよ」
 言い置いて、さっさと歩き出す元述に、言われた方は何ともいいがたい表情で付き従う。
「……なんか、一緒に行くのが前提みたいになってるんですが……?」
「何か用事でもあるのか?」
 いっそ無邪気なほどに何の迷いもない瞳で元述は訊いた。英實が買い物に付き合ってくれるものと信じて疑わないのだろうか。ふいに英實は、自分がここでこいつを放り出してさっさと帰っちまったらどうするんだろうと、試してみたい衝動に駆られた。
 子供じゃあるまいし、兵営まで一人で戻ってこられないという事はなかろう。剣の腕も立つし、一人歩きが危険と言うことも無い。自分の面倒ぐらい自分で見られる年齢なんだから、英實が付き添って歩く必要はないはずである。
 ああ、それなのに、俺はどうして?
「いや、大事な用があるというなら別に、無理にとは言わないが……」
 黙り込んでしまった相手に、元述は気が咎めたように遠慮がちに言った。でもできれば一緒に来て欲しいというのが、その目線や表情に出ている。隠そうとしていないのか、意識していないのか。どちらにしろ英實には一目瞭然なのだから、いちいち考えるのも馬鹿らしい。
 一人で買い物をすると言う事に、そんなに自信がないんだろうか。戦場ではあれだけ堂々と敵と渡り合い、実力者揃いの精鋭集団を率いている男が、たかだか店員相手に「それを売ってくれ」と言うだけのことすらできないというのは奇妙な話だ。
 いや、そうじゃないのかも知れない。休日に一人で出かけるのがつまらないとか、寂しいとか、そういう理由なのだろうか。部隊の若い連中に声をかければみんな喜んでお供するだろうに、本人はそんな事知りやしない。気落ちした様子で、英實の反応を窺っている。
「まあ、いいよ。どうせ暇だし、付き合うよ」
 英實があっさり答えれば、あからさまに安堵した顔を見せた。そして問題は片付いたと言わんばかりに、前に向き直って黙々と歩いていく。
(なんだかな、結局……なし崩しというか)
 今更考えるまでもなかった。元述の方に疑う余地がないのではなく、自分の方が最初から相手を裏切る気がないのだ。試したらどうなるかと考えてもそれを実行する気は起こらない。その結果がもたらすものを、自分はけして望んではいないのだから。
 無自覚にしろ、それを承知しているから元述もいちいち振り向いて英實の存在を確かめたりしない。そんな事をする必要がないのだ。それだけの確信を持てるものが、二人の間にはあった。
 市の喧噪を楽しむゆとりも出てきたのか、ゆっくりとした足取りで人混みの中を漂い歩く元述の後を、付かず離れずで英實が追いかける。時々珍しいものを見つけた元述が指を差しあれは何かと問い、英實が知っている限りのことを答える。
 道が分かれた場所に来れば、立ち止まり、正しい道順を示してくれるのを待っている。飼い犬が主に、子が親に寄せるような無条件の信頼。自分はそれを手放したくはないのだ。
(こいつはこういう奴だから、結局の所俺はついつい世話を焼いてしまうんだろうなあ)
 並んで歩きながら、何となく顔が綻んでしまう。それを見咎めた元述が問い詰めた。
「……なに、ニヤニヤしてるんだ気持ち悪い」
「別に何でもありませんよーだ」
 憎まれ口を叩きながら、元述の方もあまり嫌そうではないのは気のせいじゃないだろう。楽しいと思っていてくれればいい。いつ戦に駆り出されるともわからない軍人同士、こうして穏やかに過ごす時間は彼等にとっては黄金より貴重なものだった。
 何より大事な友達と共に過ごす。
 今頃真面目に訓練しているだろう花郎の連中に悪いなと思いながらも、英實はもう少しだけ、この千金にも等しい時間を満喫することにした。