陽が沈み、地上の家に灯りが点る頃、それは東の空に姿を現す。
 人々が寝静まり、町の明かりが消える頃、天の高みに登った懐かしい彼の家は、眠らずに見つめている地上の子を柔らかく照らしていた。
「家が懐かしいのか?」
 突然、背後からかけられた人の声に、元暁はゆっくりと振り向いた。階の下の、月光が四角く漂白した部分に元述が立ち、童子のような表情で見上げている。この若い剣士が人前でそういう無防備な姿をさらすということは、少なからず酒気をおびているのだろう。
「家、とは?」
 元暁の問いかけを聞いているのかいないのか、ふらふらと危なっかしい足取りで露台へ登ってこようとしている。今にも転げ落ちていきそうだ。案の定、片足を段から離した途端にぐらりと上体が揺れ、そのまま後ろへ傾いでいった。あれでは頭から墜落してしまう。
 元述の足が階段から離れる寸前、跳躍した元暁がその手を掴んで支えた。そのまま浮遊魔法を使って露台へ導くと、時ならぬ空中散歩が気に入ったのか、着地すると少しだけ残念そうな顔をした。
 酔うとまっすぐ立っていられないのか、欄干にもたれて月を見上げているのだが、上背のある元述はそのまま露台から身を乗り出して落ちてしまいそうに見えた。それでもう一度手を引いて腰を下ろすように促すと、彼は両脚から力を抜いてその場にずるずると座り込んでしまった。
「もう一度」
 さっきの魔法をせがんでいるのだとわかった。が、元暁は首を振って静かに指を離した。空を掴んだ手が支えを失ってぱたんと床に落ちる。力の入らない自分の身体がおかしいのか、元述は一人で肩を揺らして笑っている。
 ふわふわとして正体がない。自分が酒に弱いことを知っている彼は、自ら酩酊するほどに酒を飲むことはない。すると、誰かに飲まされたのであろうが、その相手はどうしたのだろう。
「元述、一人だったのですか?」
 元暁が訊ねても本人はふわふわ笑っているばかりである。
 しかし元述をここまで酔わせることの出来る人物となると、自ずと限られてくる。相手になりそうな面子を思い浮かべてみて、彼らであれば酔いつぶれた元述を放り出して帰ることもないだろうから、たぶん自分で彷徨い出てきたのだろうと想像した。
 普段真面目な反動なのか、酒の力でたがの外れた元述は、時として思いも寄らない行動をとるのである。
「今宵は月が美しいですからね」
 月の光にでも誘われたのか。空の頂にある故郷を見上げて元暁は静かに笑った。浮遊魔法でも届かないその地を想うときの胸の痛みを、望郷の念というのだ。それを教えてくれたのは、彼をこの場所へ迎え入れてくれた人間だった。
 自分にも、人間と同じ感情があると知って彼は嬉しかった。
 将軍が、元述に彼の『家』の事を教えたのだろうか?
 全ての人間が彼の存在を快く受け入れているわけではない。しかし何故かこの若い剣士は最初から元暁に悪感情を持っている様子はなかった。元述にとって尊敬の的である文秀将軍が認めているゆえ、彼もそれに倣っているに過ぎないのだろうか。本当に仲間と認めてくれているのだろうか。
 気にはなるが、月を見上げる自分の傍らで、上気した頬を夜風に晒して心地よさげに微睡んでいる元述を見ると、それだけで答えは充分な気もした。
 二人はしばらく無言のまま、同じ月の光を浴びていた。聚慎の街は眠りについている。しんしんと降り積もる月光の音にすら壊されそうな静寂が辺りを包んでいた。
 あまりに静かなので、元述が眠ってしまったのではないかと視線を向けると、しっかりと目を開けてこちらを見ていた。
「月までは、飛べないか」
 焦がれるように見えたのだろうか。元述はそんな風に訊ねた。
「飛べません」
 柔らかく微笑んで元暁は答えた。それがどんな風に映ったのか黒い目を瞬くと、元述はおぼつかない動作で身を起こし、元暁と並ぶように欄干に手をついて月を見上げた。
「こうやって見上げると、とても近そうなのにな……」
 うっとりと呟いた声は、彼の方が月へ帰りたがっているように聞こえた。地上に囚われている月の客人《まれびと》。月を恋しがり、家を恋しがり、翼を欲しがって空に手を伸ばす。
 その横顔から何故か元暁は目を離すことが出来ず、魅入られたように言葉もなく見つめ続けた。真珠のような月の光が、滑らかな額から鼻筋、唇の輪郭を、夜空に象っている。
 空に向けた眸は鏡のように月の光を映しているが、彼が求める地は、その月よりも更に遠く手の届かない場所にあるかのようだった。
「元暁、今なら飛べそうな気がする」
 唐突な発言に元暁が我に返ると、元述は欄干に片足をかけて、自分の言葉を実践しようとしているところだった。
「無理です!」
 さすがの元暁も泡を食って、咄嗟に腕にしがみついて引きずりおろそうとした。しかし元述も鍛えられた軍人だけあって、相当に力が強い。
「体が軽くて、ふわふわ浮き上がりそうなんだ。さっきのお前の魔法が残っているのかも」
 一見、しっかり意識を保っているように見えて、やることは完全な酔っ払いだ。しかもどこか子供じみている。無邪気に言われた元暁は、職務上のつきあいからは知りえない元述の一面を垣間見た思いだった。
 これは――文秀将軍がやたらと元述に酒を飲ませたがる理由がわかるような気がする。
 しかし面白がっている場合ではない。
「それはあなたが酔っぱらっているだけです。とにかく、危ないですから――」
 今しも欄干の外へ身を投げ出しそうな元述を必死で引き戻す元暁の声に、別の人間の怒声が重なった。
「何やってるんだ、元述!! この馬鹿っ!!」
 二人が声のした方へ視線を向けると、眼下の庭を文秀将軍が血相を変えて走ってくるところだった。
「あー、見つかっちゃった」
 やけに幼い口調でそう呟いた元述だったが、どちらかというと見つかって嬉しいように聞こえた。酔眼でも愛しい将軍の姿はよく見えるのか、主人に飛びつく犬のようにぐいぐいと前に出ようとする。気を抜くと小柄な元暁の身体ごと持って行かれてしまいそうだった。元暁の筋力が人間並みだったら確実に落ちているだろう。
 いっそこのまま一緒に落ちて、また浮遊魔法を使った方がいいのかもしれない。しかし、それで空を飛ぶのが癖になってしまったら後で困るのではないだろうか。酔っぱらうたびに高所から身を投げるようになったりしたら、さすがの将軍も手に負えるまい。
「将軍、今そちらへ参ります」
 嬉々とした声を上げ、ますます身を乗り出す元述を見て、将軍は肝を冷やしたようだった。素面ならこの程度の高さは元述にとって何ほどのこともないが、泥酔した今の状態では文字通り自殺行為である。
「馬鹿ッ!! じっとしていろ! 元暁、そのまま押さえてろよ! 絶対離すんじゃないぞ!」
 吼えるような大声で怒鳴って登り口の方へ回り込んでいく将軍の姿を、欄干に足をかけたままぼーっと見送っていた元述だったが、そこに将軍が居ないのでは飛び降りても仕方がないと思ったのか、大人しく姿勢を戻して階段の方へ視線を向けた。
 もう押さえていなくても良いらしいと、元暁も掴んでいた手を離す。
 そのうち荒々しく階段を昇る足音が聞こえ、汗だくになった将軍が姿を現すと、元述はにこにこと嬉しそうに自分からすり寄っていった。
「今度は私が鬼ですね」
 のほほんとした部下の笑顔に文秀は安堵混じりの大きなため息をこぼした。
「何が鬼だ。勝手に姿をくらましやがって……。かくれんぼはもうお終いなんだよ。ほら、帰るぞ」
「ええー」
 不服そうな声を漏らした元述だが、文秀が手を差し出すと敢えて逆らうつもりはないようだった。素直にその手に自分の掌を重ねる。
「元暁、迷惑をかけたな」
「いいえ、面白い物を見せていただきました」
 淡い笑みを添えて元暁が応えると、途端に文秀は苦虫をかみつぶしたような顔になった。
 元述は振り返り、一緒に遊んでいた子供がするような仕草で「またな」と手を振る。元暁が手を振り返すと、将軍に促されるままおぼつかない足取りで露台を後にした。
 二人は地面を足で歩いて、地上の家に帰っていく。露台の縁に立って見下ろすと、月明かりの下を並んで歩く影が二つ、皓々とした月光の下をそぞろ歩いているのが見えた。
 元暁はそれが夜の陰影に解けていくまで見送っていた。
 また一人になって、月を見上げる。
 西の空に傾き始めた月は、変わらぬ穏やかな顔を地上の子へ向けていた。


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 後日、夜警の兵士達の間で、元述郎が文秀将軍と痴話げんかの末、投身自殺を図ったと言う噂が、まことしやかに囁かれたという。


おわり

■あとがき■

疑問:月夜のしっとりとした静かな交流を描くはずが、最後にオチが付いているのは何故だ。
昨夜の満月が綺麗だったから! というこじつけで、十五~十六夜の頃に思いついて寝かせていた話を引っぱり出してみものの、いまいち上手くまとまらんかったー。
まー、空を飛ぼうとする酔っ払い元述が書けたからいいやv

蛇足:元述が酒の席から抜け出した真相↓
「将軍、目を閉じてください」
「ん? こうか?(おっ、もしかして今日は元述の方から仕掛けてくるつもりなのか? 酒の力は偉大だな……)」
「そのままで、百数えてください」
「(なんだ、やっぱりいきなりは恥ずかしいのか。心の準備が要るんだな……可愛いやつめ)一、……二、……三、……」
 そして目を開くと誰もいなかった。