〜宵歩き〜



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「ったく…『糸の切れた凧』とはよく言ったもんだ」と文秀は苦笑いして、臙脂色の煙草の箱から、最後の一本を取り出して口に咥えた。

「蛸に糸なんかありましたっけ……?骨じゃなかったですかぁ?」

元述は立ち止まり、のほほんとした笑みを浮かべてこちらを振り返る。文秀は「……いい、気にすんな」と、ヒラヒラと手を振った。
元述はそれで安心したらしく、また機嫌よさそうに鼻歌を歌い、時々すれ違う野良猫に挨拶しながら、あっちにフラフラこっちにフラフラと歩いている。

要するに、酔っ払っているのだ。

月明かりの下ではよく分からないが、酒場を出た時点では、元述の白い肌が顔から首から手先まで赤くなっていた。あれから小1時間は浮遊散歩に付きあわされているのだが、いまだに元述が正気に戻る気配は無い。

今日…正しくは昨日からということになるだろうか、下町のとある酒場で、各部隊々長に文秀を交えた、その古ぼけた店にはあまり似合わぬ面子で酒を酌み交わしていたのだ。

2、3ヶ月に一度の割合で彼らがここに集まるのは、公式の軍儀では憚られる内容の情報交換も兼ねているからだ。しかし、それは大抵最初の1時間で終わってしまい、残りの2時間は気晴らしだ。

そもそもあまり酒を飲まない元述は、その気晴らしのほうには付き合わずに早々に帰ってしまうのだが、今日は何故だか乙巴素が、随分頑張って元述を食い止めていたのだ。
その結果、酔っ払いのお手本のような酔っ払いが一名、出来上がってしまったと言うわけだ。


今回は集まった時間が遅かったので、時間は既に丑三つ時も過ぎている。
何を思うともなく空を見上げていると、少し離れた場所からクシュクシュとくしゃみが聞こえてきた。

まだ秋というには早い季節とはいえ、明け方近くになると身震いするほど空気が冷たくなる日がある。今日はまさにそんな日だったのだ。
文秀はぽりぽりと頭を掻きながら嘆息した。

「あの馬鹿、だから上着を持ってきておけと言ったのに……」

とはいえ、本人はこんなに冷え込む時間になる前にさっさと宿舎に帰るつもりだったのだから、どちらかと言えば悪いのは元述を引き止めた乙巴素と、それを面白がって見ていた自分かもしれない。
文秀はしょうがないなと小さく呟き、自らのコートを脱ぎながら、早足で元述に近付いた。

「おい、風邪引くぞ。これ着とけ」

元述はぽやんとした目で文秀を見上げた。
いつもの彼ならば「もったいない」とか「恐れ多い」とか何とか言って、何が何でも断るのだろうが、なにせ今日は酔っ払いである。実に素直に「はい」と頷いて、コートの袖に腕を通した。

「おっきいですねぇ……」

元述の言う通り、ゆうに3寸は余った袖先がくたりと曲がっていて、なんだか大人の服を子供が着たようになっている。

「しょうがないだろ。これしかないんだ、文句言うな」

そもそも身長差があるところにもってきて、一目で腕の太さの違いがわかる程の体格差があるのだ。大きくて当たり前である。

が、元述は目をぱちくりとしばたかせた後、にこりと笑みを浮かべた。

「文句じゃないです、なんか嬉しいです。将軍に抱っこされてるみたいで」
「……………そりゃ…………良かったな」
「はい!」

元述はこくりと頷いてから、余った袖をぶんぶん振りながら大通りへ向かって走り始めた。

「おいおい……。自力で動ける分、凧よりタチ悪ぃな……」

元述の背中は、すぐに見えなくなった。遠ざかる足音だけが文秀の耳に届く。
が、その足音はしばらく止んで、再び文秀の方へと近付いてきた。見れば、元述が先ほど姿を消した路地から、転がるようにこちらへ駆けてくる。千切れんばかりに尻尾を振りながら駆け寄ってくる子犬の姿が、文秀の脳裏に浮かんだ。

「あー!将軍いた!!よかった、いなくなっちゃったから心配しました」

そりゃこっちの台詞だと思いつつ、文秀は「そうか」と短く答えて、元述の頭をよしよしと撫でてやる。

「ほら、いい加減帰るぞ。寝りゃあ酔いも醒める」
「はい」

文秀の隣を歩き始めた元述は、なんとも幸せそうな顔をして、文秀のコートの感触を楽しんでいる。
そんなに抱っこがよけりゃ、本物がここにいるんだがなと、文秀は苦笑いを浮かべた。

(……ま、帰り着くまではコートにお守りを頼むかな)

帰った後はちゃんと返してもらうぞと、文秀は心の中で呟いた。